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  • 朝野裕一

動的平衡のお話

NHK-BSで「最後の講義」という番組があります。

今日の早朝(昨日の深夜)は生物学者の福岡伸一氏の講義。

福岡先生の主要概念が“動的平衡”です。

生命は絶え間のない流れの中で合成と分解を繰り返しそれらがバランス

を取っているというものです。

この番組で福岡先生が述べていた骨子は、

○生命は機械ではなく流れである(ルドルフ・シェーンハイマー)

生命・生物の機械論的発想に対するアンチテーゼ。

生物の臓器などを機械の部品のように入れ替えるだけではうまくいか

ないのではないか?

○生命は先ほど挙げた動的平衡を取っていて、それはエントロピーの

法則に逆らうための方策である。

エントロピーの法則に従えば、組織だったものが崩壊していく方向へ

動いていくと解釈できます(元々は熱力学の概念だったものが色々

比喩的にも使われているので誤解も多いようです)が、生命はある期間

その形を継続させています。

これは、崩壊の起こる前に合成と分解を繰り返すこと、すなわち常に

リニューアルさせていることで、全体の崩壊を防いでいるという考え方

として述べています。

○機械論的な生命観は生命をたわめた作り物であって、でも一度はこの

作り物を通って理解を深めつつ、最終的には動的平衡な生命観に戻るの

が学問の本質であろう。

これは物理学に関してのべた朝永振一郎氏のことば(『滞独日記』

から引用)を生物学に当てはめて語った福岡氏の考えです。

それ以外にも、

脳死と脳始の問題とかはっきり語ってはいませんでしたが、臓器移植や

現代の医学的手段に対して疑問を投げかけている言説もあり、興味深く

観ていました。

ところで、

動的平衡=動的バランスといえば、身体のバランスを語る場面で必ず

出てくる言葉でもあります。

ヒトがカラダを動かしながら、安定性を保ってその運動を成し遂げる

ために必要な動的バランス。

身体運動もいわば機械論的な考え方に大きく頼っています。

一方では、

部分の総和では説明のつかない連動性や複雑性を有してもいます。

ヒトも生命の一つである以上当たり前のことかもしれませんが、

身体の運動の側面から見た“動的バランス”と、生命全体から見た

“動的平衡”がリンクして、尚更面白く番組を観ることができました。

ヒトの動きに関しても、

機械論で説明できる部分と、とは言っても全てが数値化・数理化できる

とは限らない不明の部分もある。

理解・解明するには、単にまだまだその域に達していないのかも

しれません。私自身がか?!

福岡氏も、あくまでこの“動的平衡”という考え方も仮説の域は出ておら

ず、今でも数理化への試みを行なっているということでした。

科学という枠組みを逸脱しないでいるためには、必要な作業なんだよ

なぁと思いながら、身体運動のことについて考える日になりました。

付記)

もう一つこの番組の中で福岡氏が紹介した、先ほどの朝永振一郎氏の

言葉であっ!と思ったものがあります。

それは、

「活動しゃしんで運動を見る方法がつまり学問の方法だろう。無限の

連続を有限のコマにかたづけてしまう。しかし、絵描きはもっと他の

方法で運動をあらわしている。」

です。昔の話なので活動しゃしんと言っていますが、今でいうビデオ

に置き換えられるでしょう。

まさに、

運動を一コマずつ静止画として見てしまうと、その前後の連動性や影響

を見逃してしまい、静的フォームとして捉えてしまう。

運動指導などでともすれば陥りやすい間違いです。

課題(痛みの発生など)のある運動においてその瞬間の肢位

(姿勢・フォーム・アライメント)だけを修正しようとしても、そう

なる前とそのあとが実は連動しているわけで、原因はその肢位の前に

あるかもしれません。

そうなると、そのポジションだけを修正しても意味がありません。

また、その後の動きにも影響を与えてきます。

運動はまさしく連動しているわけです。連動の中でしか再現ができない

最後の絵描きの話も面白かったです

画家が描く絵画の静止画にも関わらず、表現される運動性が観ている

ものに迫ってくる。

その表現力こそ芸術の本質なんだなぁと感心しました。

今日も読んでいただき、ありがとうございました。また明日。

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